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〜1974年から、北海道農業の挑戦とともに〜 GREEN 1974→

酪農を「楽農」に酪農家の鈴木牧場(士幌町)を訪ねて

挑戦のバトン

北海道農業の歴史は、挑戦の歴史です。GREEN編集室では、この50年間、農業を前へ前へと進めてきた人々の気概をお伝えしようと、過去にGREENに登場された生産者と後継者、長年農業に携わってきた女性を訪ねることにしました。一人ひとりが農業にかけてきた思い、受け継ぐ世代が切り拓いていこうとする未来にふれてください。

Vol.01酪農を「楽農」に
酪農家の鈴木牧場(士幌町)を訪ねて

GREEN NO.4に登場された
鈴木洋一さん、正道さん親子

鈴木洋一さん
1942年、鈴木牧場の創立者・辰治さんと君子さんの長男として誕生。野幌機農高校(当時)を卒業後、帰郷し家業に専念する。63年、当時の士幌農協太田寛一組合長の強い勧めで、十勝初の酪農派遣実習生として渡米。家族酪農の理想的な姿などを見聞きし、カルチャーショックを受ける。64年、所持金をはたいて購入した牛1頭を引き連れて帰国。65年、鈴木牧場の二代目となり、酪農の近代化、機械化に邁進。95年、「宇都宮賞 酪農経営の部」受賞。2004年、牛のふん尿を活用するバイオマスプラントを稼働させる。
 
鈴木正道さん
1968年、洋一さんと玲子さんの長男として誕生。地元の高校を卒業後、浜中町の牧場で1年間研修し、アメリカの牧場へ。そこで分業を徹底した牧場経営を知り、6次化の必要性なども学ぶ。2006年、鈴木牧場の三代目となり、先代が進化させた酪農経営と、創立時から変わらない酪農家スピリットを受け継ぐ。現在、飼育頭数は約360頭(内経産牛170頭)で、牛乳出荷量は年間1,700トン余り。妻と長男、従業員5人を含む計8人で牧場を盛り立てている。

生活を楽しんでいる酪農家に
カルチャーショックを受ける

洋一さんは、アメリカ留学から帰国した翌月、1965年1月に鈴木牧場の二代目になった。乳牛11頭と多額の負債を抱えての船出となった22歳の青年は、札幌まで通って簿記を学び、次に牧場の土地改良、トラクターをはじめとする大型農機の導入を進めた。たゆまぬ努力によって土地の生産性が大きく向上し、多頭飼育の道筋が見えだした70年、洋一さんは思い切って酪農専業に転換。乳牛が40頭を超えた71年には、バルククーラー(牛乳冷却装置)、パイプライン、バーンクリーナー(牛ふん自動排出装置)などを順次導入していった。
 
74年、GREEN NO.4に32歳で登場した洋一さんは「酪農を『楽農』にしたい」と語っている。この言葉には原風景がある。「僕を受け入れてくれたアメリカの牧場では、週に一度は街に出て外食を楽しみ、日曜は教会に行くなど、家族も働く人も生活を楽しんでいた。それを見て僕はとにかく驚いた」。60年ほど前の出来事を昨日のことのように語る洋一さん。その口ぶりからも、カルチャーショックがいかに強かったかが伝わってくる。「アメリカでは、牧場で働く人たちが酪農に誇りを持っていたし、酪農は今も憧れや成功の象徴でもある。それを知って思ったんだよね。こんな風な『楽農』を経営したい、それも士幌でと」。そのためには、(1)早起きをすること、(2)きれい好きであること、(3)金銭感覚を身に付けること、(4)記録することが大切であると、洋一さんは学んだ。「この4つは学歴も経験も関係ない。誰でもできること。僕はそれを60年間やり続けただけの話なんだよ」。

太田寛一さんの教えを胸に
日本初の試みを次々

洋一さんは、「楽農」の実現には、アメリカの牧場で圧倒された、合理的なシステムへの転換を急がなければと考えた。75年には500トンの大型サイロを建設し、自動給餌のフリーストールを整え、81年には日本で初めてコンピュータによる個体管理方法を導入。89年には搾乳時間の短縮を可能にするライトアングルパーラー(写真右)、96年には子牛の自動哺乳装置と、先進的な設備を次々加えていった。一方で、経営規模拡大を図るために、アメリカからの優良牛の導入を精力的に推し進めた時期もあった。士幌に「楽農」をと、迷うことなく突き進む洋一さん。そのそばには、結婚するまで農業とは縁がなかったにもかかわらず、いつも明るく、一緒に働く玲子さんがいた。
 
洋一さんの桁外れともいえる推進力の源はどこにあるのか。「太田寛一さんの言葉です。『計画を持って経営をやれ』、『大切なのは判断力』、『判断したら絶対に実行する』の3つが大切だと」。洋一さんはさらに、こう付け加える。「いま思えば、太田さんは未来の日本の農業のことを考えて、僕をアメリカに行かせたんじゃないかな。渡米した60年前、十勝では手搾りした生乳を専用の缶に入れ、水槽で冷やしていた。あっちでは、バルククーラーでやっていた。堆肥はバーンクリーナーがあり、牧草はベーラー(牧草梱包機械)で縛るなど、すべての作業がシステム化されていた。士幌に帰ってこんな酪農をやってみたいと思ったよ」。両親の働く姿から、酪農はやってもやっても苦労が絶えないと思いこんでいたが、やり方ひとつで面白くなるのではないか。アメリカで見出したこの希望が、その後も洋一さんの背中を押し続けていく。

地域のためにも労をとり、
「宇都宮賞」などに輝く

不屈の根性と見果てぬ夢の両輪で酪農に取り組んできた洋一さんは、25歳で士幌町酪友会の初代会長となる。そしてその後も、数えきれないほどの公職に就く。士幌町乳牛検定組合副組合長、士幌町酪農振興協議会会長から、士幌町PTA連合会長、士幌町スケート協会会長まで幅広く、士幌町議会議員を7期務めてもいる。洋一さんが鉛筆で記した公職年表は、A4用紙3枚にびっしり。経営が苦しいながらも地域のために多くの公職を引き受け、尽力していた父の影響も少なからずあるだろう。
 
士幌町酪農振興協議会会長だった頃、洋一さんはこのままでは後継者も花嫁も不足し、酪農家の存続すらままならないと危機感を募らせていた。そこで、89年に69戸の酪農家たちで士幌町デーリィヘルパーコーポレーションを発足。専任の酪農ヘルパーを置いて、会員が調整し合って各戸が定期的に農休日を設けられるようにした。「これは農村花嫁対策にも功を奏して、北海道知事賞をいただいたんだよ。このヘルパー制度を作ったことで、僕もお母さんと一緒に海外旅行にもたくさん行けた」と、洋一さんはうれしそうに笑った。
 
「一番苦労したのは、それまで朝夕二回の牛群検定から一回検定のAT検定法を全国に先駆けて町内で導入したこと」と振り返る洋一さん。この検定は1日分の乳量や乳脂率を推定するためのもので、AT検定法への変更には国や関係機関も協会も大反対。洋一さんはそれを押し切って、95年に士幌単独でAT検定をスタートさせた。「町内の酪農家を一戸一戸訪ねて説明し、全戸が加入することができました。農水省が認めるまでに3年かかったね。士幌町ではこれまで検定組合から一戸の離脱もなく、今では全国でAT検定が実施されていることから、酪農家のために役立っているのだろうと安堵してるし、手掛けたことに満足してますよ」。
 
酪農経営の近代化と地域への貢献が認められ、洋一さんは二代目となって30年目の95年に「宇都宮賞」を受賞。表彰式では、「今後も後継者や女性が夢を持ち、生活を楽しめるような酪農を目指したい」と挨拶した。2005年には「日本農業賞大賞」、「農林大臣賞」、「伊勢神宮農事功労賞」を受賞したほか、18年には旭日双光章、21年には士幌町名誉町民称号、22年には紺綬褒章を授与されている。

運営方法も感覚も、
アメリカは違うことだらけ

「長男に生まれたら家の仕事を継ぐのは、昭和の時代は当たり前だったでしょ」と笑う正道さん。小学生の頃から朝に夕に牛に餌をやり、牧場の仕事に関係ないからと朝野球を反対されても、そういうものだと受け止めていた。高校卒業後、浜中町の研修先では放牧のスケールの大きさに驚き、アメリカの牧場では牛を追うなという飼育法に戸惑いを覚えた。しかし、そうした一つひとつの経験を通して、正道さんは「酪農にもさまざまなやり方がある」という確信を深めていった。「アメリカの研修先で、当時うちで導入したばかりのミルキングパーラーの写真を見せたら、何頭いるんだと。約80頭と答えると、これは400、500頭いる牧場で使うものだ、過剰投資だと笑われて。同じ酪農家でも感覚はずいぶん違うなぁと思ったよね(笑)」。
 
日本でもアメリカでも牧場の仕事はほぼ同じだが、運営方法はまるで違った。日本では一人ひとりにオールマイティであることを求めるが、規模が大きなアメリカでは機械担当は機械だけ、牛舎では搾乳の人、哺乳の人というように分業が徹底していた。「その分、一人ひとりに自由がきいて、中には牧場以外の仕事もしている人がいた。帰国後、分担制もあるべき姿かもしれないと父に話したけれど、人材の確保が難しい時代で、その頃はまだ父が音頭を取って立ち上げたヘルパー制度もなかったので実現できなかった」。その牧場では乳価が安いからチーズを作るなど6次化にも取り組んでいた。「チーズを作ったり、自分たちで売ったり。そうしたこともやらなければいけないと、彼らはハッキリ言っていた。振り返れば、そういう点でも向こうは進んでいた」。

設備投資、機械化を進め、
受け継いだものを守る

2006年、正道さんは37歳で鈴木牧場の経営を引き継ぐと、設備投資と機械化を進めていった。父が40年以上前に建てたサイロの横に翼のように伸びる牛舎、100坪の大型車庫と一体となった200坪の堆肥場は、正道さんが建てたもの。牧場内を見学すると、あらゆる建物で作業を合理的に運べる動線、衛生管理のしやすさを熟考した設計が目を引いた。そして何より、牛舎はもちろん、すべての施設において掃除が行き届いているところに、酪農家としての誇りを感じた。また、洋一さんが次代を見据えて導入したバイオガスプラントも管理し、年間40万kWを売電し、町内10戸の畑作農家に液肥を散布してもいる。「バイオガスプラントの工事を始めたのは2003年。当時はその必要性を誰にも理解してもらえず、父は苦労したようですよ」。
 
正道さんは、飼料や肥料の研究にも没頭した。「数年間にわたって、一区画の畑を三分割にして、堆肥をまく量や種類、組み合わせなどを変えながら調査した。それまで蓄積してきたデータからはわからなかったことも発見でき、やって良かったよ。その時の調査が、今でも肥料と堆肥のバランスを考える際のベースになっている」。父の洋一さんが大事にしている「記録をとることの大切さ」を正道さんも実践しているようだ。そこで、父から受け継ぎたいことを改めて尋ねると、「牛も機械も設備も人も、大事にすること」と正道さん。「それはいつの時代も変わらないんじゃないですか。ただ、最近は環境があまりにも変わってしまったので、昭和の人間はついていくのが大変です」と謙遜した。

酪農はなくなることはない
人任せではだめ

鈴木牧場は、三代にわたって環境整備にも取り組んできた。敷地内の道路は生活用、乳牛搬出入用、飼料堆肥専用に区分し、全敷地内を舗装化。電線類を埋設し、花と芝生を造成するなど、景観美化も入念だ。「生乳とはいえ、食品。消費者の皆さんにとっては、どんな環境で生産しているのかは気になるでしょう。我々もただ飲んでと言うだけでなく、安心して飲んでもらえるように努力しないと」と正道さん。祖父が植えた花、父が建てた施設や設備を大切に守り、維持していく役割も担っている。
 
洋一さんは、「酪農はなくなることはない」として、正道さんをはじめ、未来を担う酪農家に向けてこんなメッセージを送った。「人任せでは絶対にだめ。どんな世界でも時代でも、努力して成功する人はいる。酪農家も自分たちなりに考えて、消費者の皆さんに安心して飲んでもらえるものを誠実につくっていってほしい」。そして、正道さんが席を外している間にこうも言った。「僕が作った施設を正道が整備してくれて、格段に使いやすくなった。牧場の環境も良くなったんだ。これからも生活をもっと楽しめる経営をして、若い女性たちがお嫁に行きたいと目指してくるような酪農経営者になればいいね(笑)」。
 
生乳の生産量も牛の飼養頭数も日本一の北海道(※)では、経験と技術を受け継ぎ、創意工夫を凝らす生産者が、安全安心で良質な生乳を提供しようと奮闘しています。今日飲む牛乳、今日食べる乳製品をつくる一滴一滴は、生産者の思いの結晶です。おいしく、残さず、できればたっぷりと味わってください。
※農林水産省「牛乳乳製品統計」「畜産統計」2021年より