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100年産地をみらいへ JAきたみらい(北見市)を訪ねて

挑戦のバトン

北海道農業の歴史は、挑戦の歴史です。GREEN編集室では、この50年間、農業を前へ前へと進めてきた人々の気概をお伝えしようと、過去にGREENに登場された生産者と後継者、長年農業に携わってきた女性を訪ねることにしました。一人ひとりが農業にかけてきた思い、受け継ぐ世代が切り拓いていこうとする未来にふれてください。

Vol.03100年産地をみらいへ
JAきたみらい(北見市)を訪ねて

GREEN NO.43で
取材させていただいた
JAきたみらい

JAきたみらいは、2003年、北海道オホーツク管内の旧8JA(温根湯・留辺蘂・置戸・訓子府・相内・上常呂・北見・端野)が合併して誕生。基盤となる北見盆地の輝かしい未来を願って、「北見」と「未来」をあわせた「きたみらい」と名付けられた。肥沃な大地を活かして北海道の主要農畜産物を生産しており、中でも日本一の収穫量を誇る玉ねぎは同JAの代名詞となっている。
 
1981年4月に発行されたGREEN NO.43では、当時すでに栽培面積日本一の玉ねぎ産地だった北見を読者が訪ね、北見地区玉葱振興会の杉山茂生会長(故人)を取材。玉ねぎ生産のルポと共に、1980年に同会が中心となって「北見玉葱生産管理規則(以下、「管理規則」)」を作成し、根切り技術の普及に努めている様子を記している。
 
今回は、杉山会長と共に「管理規則」を練り上げた籠谷基志(かごや もとし)さんと、現在もこの「管理規則」をベースにより良い玉ねぎ生産に努める、きたみらい玉葱振興会の現会長・加藤英樹さんにお話を伺った。

どん底まで落ちた。
あとは這い上がるしかない

北見地区に玉ねぎの種が初めておろされたのは、1917年。“ハッカ全盛の時代に、売れるかどうかもわからない玉ねぎを植えた先人の意気込みは、まさに開拓精神の発露”と、杉山会長は『北見市玉葱振興会30周年史(1984年発行)』に記している。
 
籠谷家では、1942年にお父さんが玉ねぎ生産を開始。籠谷基志さんはその翌年に長男として生まれ、1959年に就農した。「いまの人には想像もつかないと思うけど、むかしは種を自家採取して、種を畑に直接播いていたんだ。苗を育てて移植するようになったのは1970年以降だね。同じ頃、F1種(※)が出たことで、だれでもどこでも作れるようになった。それまで作っていた品種の札幌黄はすごく土壌を選び、低温に弱かったから、F1の登場は画期的だった」。
 
作業や品種が変わり、作る人が増え、耕地面積が広がり。玉ねぎ生産は順風満帆と思えたところで、問題が起きた。「1979年、横浜の市場から段ボールひと箱が送られてきた。『おたくの玉ねぎはこんなものです』と。見ると、L玉80個入っている内の1割が腐っていた」。籠谷さんは厳しい顔で、さらに続けた。「北見の玉ねぎはもう送らないでくれと言われた。それはもう、ショックだった。頭の中は、どうしよう、どうしよう、どうしようさ」。
 
当時、籠谷さんは北見地区玉葱振興会青年部の部長だった。すぐに対策をとらなければと、その年の秋に役員会を開き、他の産地の視察にまわった。「ある役員が『腐敗は何個までならいいの?』と言うから、『1個でもだめだ』と。『そんな厳しいこと言っても』、『商品なんだから1個でも腐ったものを出しちゃだめだ』と。あのやりとりは忘れられない。それだけ認識が甘かったんだ」。選果が悪いのではないかと言う人もいた。しかし、籠谷さんは「選果場は腐った玉ねぎを良くする場所ではない」と一刀両断。「どん底まで落ちた。あとは這い上がるしかない、這い上がらないといけないの一心さ。ここは1917年からの産地なんだから」。
 
※異なる品種を掛け合わせて得られる、一代交配種。両親より優れ、均⼀な性質を示すことが知られている

これをやらないと、
産地はなくなる

杉山会長、籠谷さんらは、「高位平準化」を合言葉に「管理規則」を作成。市場から屈辱のひと箱が届いた次のシーズンの1980年4月8日から実施することとした。
 
その内容は生産・管理基準規則と審査要領からなり、当時の生産・管理基準規則は3項目。「定植作業は5月末日を以って最終日と定める」、「収穫最終は9月末を目標とする」をはさんで、「圃場での根切り(9月中旬最終)は適期に必ず実施すること」と記されている。「根切りというのは、玉ねぎが大きくなって葉っぱが倒れてきたら、根を切ること。こうすると、水を吸い過ぎてむやみに大きくなることを防ぐことができ、葉枯れの時期も揃い、球のしまりも光沢も良くなる。品質向上のイロハのイ」と籠谷さん。杉山会長はGREENで、“根切りは昔から知られている方法だったが、手間がかかるために、農家ではほとんどやっていなかった。しかし、私自身実際にやってみて、その効果を知っていたので、ほかの人にも勧めたほうがいいと思った”と語っている。
 
審査要領の項には、生産・管理基準規則を遵守しているかなどをチェックし、場合によってはペナルティーを与えると明記されている。「圃場と現品を審査し、その点数によって価格差がつくようにした。どんなものを出すかは100%自己責任。こうすれば、一人ひとりが真剣にならざるを得ないだろうと考えた。ただ、これに対しては、反発がものすごかった」。
 
作業が増えること、審査されることに不満を持ち、JAや振興会、玉ねぎ生産を辞める人も出たという。「私が1989年に北見市玉葱振興会の会長になってからも、これをやらないと産地はなくなるよと説得し続けた。加えて、週2回は10ほどある選果場を回り、腐敗の数なども記録した。とにかく品質向上、全体の底上げのために手を尽くした。答が出るまでに10年はかかったね」。
 
「一人ひとりがきちんとしたものを作る。そして、全員で仲間と産地を守る。最後は人間そして組織の和だ」と籠谷さん。「玉ねぎが安くて困った」とこぼしていた父や、玉ねぎが暴落して離農した人々を見てきたからこその使命感があったのだろう。

     

日本一だなんて思っていない。
もっと高みへ

400戸以上が所属する、きたみらい玉葱振興会(※)の加藤英樹会長が生まれたのは、北見市が玉ねぎの作付面積、生産量ともに日本一になった1973年。加藤会長が幼い頃は、周囲は稲作と玉ねぎがメインで、加藤家ではてん菜、小麦、ねぎなどもつくっていたそうだ。加藤会長が4代目として就農したのは1993年。籠谷さんらが「管理規則」の普及に力を注いでいた頃だ。当時は、量ばかりの産地、ここでとれる玉ねぎは「泥玉ねぎ」と揶揄されていたことを加藤会長も覚えている。
 
この30年間、機械が進化したことで作業効率が上がり、収穫体系にも変化があった。栽培暦も前倒しが進み、かつては4月末頃だった定植開始がいまは4月中旬頃に、お盆明けからだった出荷は2週間ほど早まっているそうだ。そうした変化はあっても、品質面へのこだわりは変わらないとして、加藤会長はこう語る。「地域全体の品質向上に尽力された杉山さん、籠谷さんらが作った『管理規則』は、いまもバイブルです。自然環境の変化などによって適期が変わるなどはありますが、本来の主旨を守った上で、我々もさらに高みを目指そうと、健全な苗づくり、適期防除、無理のない収穫などの徹底も図っています」。
 
目指す玉ねぎのすがたを、加藤会長はこう語る。「かつて、玉ねぎの種は缶に入っていて、缶の表面に玉ねぎの写真が印刷されていたんですね。その玉ねぎは一点のシミもなく、ピカピカで、あれが目標なんです。土が完全に乾き切る前に機械で拾い上げたり、葉を切る機械の使い方が悪かったりすると、シミを招き、玉ねぎは汚れます。手のかけ方が見た目に現れるんです」。
 
「日本一の産地とよく言われますが、私は日本一だなんてさらさら思っていません。他の産地のほうがいいものを出してきたりしていますから。くれぐれも足をすくわれないように、常にもっと高みにいけるようにと、仲間や若手には話しています」。
 
※JAきたみらいの誕生に伴い、北見市をはじめとする各地区の玉葱振興会が結集して誕生した組織。

自分たちは、
先人の苦労の歴史の上にいる

日本で流通する玉ねぎは、春からは府県産、府県産が少なくなってくる8月頃からは北海道産が主力になる。現在、JAきたみらいでは、収穫が早い品種から遅い品種まで全5品種を生産し、順送りで出荷している。それでも市場からは、本州産が終盤に向かって流通量が減る前に玉ねぎを出荷してほしいと、強い要望が届くそうだ。「通年供給は我々の目標でもあります。我々が出荷した玉ねぎが市場で保管される環境も念頭に置いて、どのような品種、貯蔵方法がいいかを模索している最中です」。
 
きたみらい玉葱振興会では、環境に配慮した商品へのニーズに応える取り組みも先行している。「振興会の中には、エコファーマー(※)の資格を持つ80戸の生産者が所属するクリーン栽培玉葱部会があり、化学肥料・農薬の使用量を抑制させることで、施肥・防除にかかる機械作業を縮小し、農作業での二酸化炭素の排出量を削減しています。環境に配慮した玉ねぎがほしいという消費者のニーズに応えていこうと、意欲的に取り組んでいます」。
 
加藤会長は、産地を守るためには市場との信頼関係が重要だとして、市場にこんな注文もしているという。「我々が出荷した玉ねぎに腐敗などがあったときは、忖度なしに伝えてほしいと頼んでいます。悪いものが届いてしまった場合は原因を究明しなければなりませんし、場合によっては段ボール箱に印字してある番号から生産者を割り出し、指導する必要もあります」。
 
若い世代に向けては、産地の歴史を伝えることにも力を注いでいる。たとえば、JAきたみらいとしてスタートを切ってからは、産地廃棄は一度もない。それは偶然でも幸運でもなく、玉ねぎ集出荷施設の稼働による出荷調整や輸出、倉庫を貸してくれる消費地の協力などがあるからだということを理解してほしいと、加藤会長は力を込める。「長い間、玉ねぎは価格が安定しない作物でした。それが、いまでは平均的な単価をつけていただけるようになりました。自分たちは、先人の苦労の歴史の上にいます。そのことを肌身で感じ取って、良いものを出すようにと強く言っています。看板に甘えて、慢心してはならないのです」。
 
※「持続性の高い農業生産方式の導入に関する指針」に基づき、堆肥などを使った土づくりと、化学肥料・化学合成農薬の使用の低減を一体的に行う農業者。都道府県知事が認定

農業分野で最高の栄誉
「農林水産祭」天皇杯を受賞

きたみらい玉葱振興会は、2021年、農林水産省などが主催する「第60回農林水産祭」で最高賞の天皇杯を受賞した。「農林水産祭」とは、過去1年間に全国で行われた表彰や共励会、品評会といった行事の「農林水産大臣賞」受賞者の中から審査されるもので、農業分野では国内最高の栄誉だ。きたみらい玉葱振興会は、同年に「第50回日本農業賞」集団組織の部の大賞も受賞している。
 
天皇杯の受賞理由概要には、きたみらい玉葱振興会の取り組みの経過と経営について、「生産管理を徹底し品質の高位平準化を図り、全国最大の玉ねぎ産地を形成。単位当たり収量・生産者の農業所得ともに全国平均に比べて高水準を確保している」と記されている。さらに、単収や生産性を大きく向上させた理由として、根切り技術も挙げられている。
 
籠谷さんにこの話題を向けると、「ものすごくうれしかった。素晴らしいことをやってくれた」とこの日一番の笑顔を見せた。加藤会長にそう伝えると、「籠谷さん世代のみなさんが特に喜んでくれたのがうれしかった。この賞は、いまの生産者ではなく、いまの土台を作ってくれた人たちを評価してくれたのだと思います。我々はこれからも常に高みを目指し、ピカピカのより良い玉ねぎをつくることに邁進していきます」と締めくくった。
 
 
生産者一人ひとりの熱意や使命感が集まって、産地を作り、育て、守り、つないでいます。秋には、JAきたみらいをはじめ、北海道の各産地の玉ねぎが全国に届きます。手に取って、産地や生産者のことを思いめぐらしてください。