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〜1974年から、北海道農業の挑戦とともに〜 GREEN 1974→

自分からやらなければ 岩永かずえさん(南富良野町)を訪ねて

挑戦のバトン

北海道農業の歴史は、挑戦の歴史です。GREEN編集室では、この50年間、農業を前へ前へと進めてきた人々の気概をお伝えしようと、過去にGREENに登場された生産者と後継者、長年農業に携わってきた女性を訪ねることにしました。一人ひとりが農業にかけてきた思い、受け継ぐ世代が切り拓いていこうとする未来にふれてください。

Vol.05自分からやらなければ 
岩永かずえさん(南富良野町)を訪ねて

夫婦で新規就農して50年。
女性農業者、岩永かずえさん

1949年生まれ、福井県出身。72年、水田農家の長男、岩永広一郎さんと結婚。74年、夫婦で南富良野町北落合に移住(同町の新規就農第1号)。広一郎さんの病気のため、畜産経営を断念し、町を一時離れるが、回復を待って戻り、畑作に切り替えて再スタートを切る。98年旧JA南富良野女性部長、2001年JAふらの総代、03年女性部合併によりJAふらの初代女性部長、06年JA上川地区女性協議会会長、09年JA北海道女性協議会(以下、JA道女性協)副会長に就任。11年にJA道女性協会長となり、男女共同参画を積極的に推進し、2期4年務める。15年JAふらの参与、17年JAふらの初の女性理事。南富良野町北落合在住。

じゃがいも収穫中の岩永農場で、二人のお孫さんと一緒に

夢を追って移住し、背負った
「見たことのない金額の借金」

「農作業はあなたにはできない」。岩永さんのお母さんは、水田農家に生まれ育ち、畜産農家を目指す広一郎さんとの結婚に、そう言って反対した。岩永さんの父は自営業を営み、母は学校の教員。親戚にも農業者はいなかった。
 
それでも二人は結婚にこぎつけ、福井県で牛飼いを始める。自前の牧場には、肉牛が約100頭。岩永さんは、農業のノの字も知らないなりに、餌やりに汗をかいた。ある日、広一郎さんが、「牛を牛舎にとじこめるのは嫌だ。広々としたところでやりたいから、北海道へ行く」と言って、土地を探すために家を出た。「夫は結婚する前にアメリカに研修に行っていて、そこで見た大規模経営を目標にしていたから、50haの土地がほしかったの。約1週間、夫の弟がいた別海町や美瑛町などの土地を見てまわったって」と岩永さん。希望にかなう土地と出会えなかった広一郎さんは、その後、再び北海道へ。「本人もあきらめかけていたとき、土地を世話してくれる人と出会い、いとも簡単に契約して帰ってきちゃった(笑)」。その土地があったのが、南富良野町北落合だった。
 
こうと決めたら猪突猛進の広一郎さんと、頑張ればどうにかなるという腹の据わったところがある岩永さんの間では、移住話が進んでいった。岩永さんが下準備で南富良野町を初めて訪れた5月には、まだ雪が残っていたという。「一番にぎやかなところだと連れていかれた場所を見て、ここが? ここで暮らすの?とびっくり。こうなるなんて話が違うと思ったけれど、別れるわけにもいかず」と苦笑する岩永さん。1974年には南富良野町に二人で移住し、牛舎を建て、300頭以上の肉牛を飼い、畜産経営のスタートを切った。その頃の広一郎さんの夢は、自身は広い山で牛をたくさん飼い、奥さんは小さな山の学校で先生をするというものだった。
 
5~6年が過ぎた頃、経営は厳しさを増していった。二人は岩永さんがいうところの「見たことのない金額の借金」を背負い、広一郎さんはストレスから体調を崩してしまう。「牧場を整理しようと私が言い、牛を手放し、二人で福井に戻りました。夫はひと冬静養すると体調が回復したので、だったら戻ろうかと、二人で北落合に帰ってきたんです」。

JAや役場、商工会の皆さんに対して
中途半端なことはできない

「北落合に戻ろうと思ったのは、経営が行き詰まっている間も応援してくれたJAや役場の方たち、町の新規就農第1号の私たちに歓迎会を開いてくれた商工会の青年部の皆さんに対して、中途半端なことはできないと思ったから」と岩永さん。広一郎さんは、牛飼いをあきらめきれずにいたようだが、まずは畑をやろうと、親しくしてくれた人から機械を借り、作り方を教わってにんじんを作り始めた。
 
北落合の土地は、標高630mの高地にあるため、寒暖の差が大きく、しかも土壌は粒子が細かく、水はけの良い火山灰。この環境を活かして、じゃがいも生産も始めた。「若い頃は畑作業がイヤで『雨が降ればいい』と思っていた頃もあったの。でもね、農作業の手伝いに来てくれるパートさんが『このじゃがいも1個でいくら、このにんじん1本でいくらと思うと、仕事がはかどるよ』って諭してくれて(笑)」。
 
夫の背を見て学び、地元の女性部のメンバーからはいもだんご、かぼちゃだんご、豚汁の作り方、フキの煮方、山菜の保存法などを教わり、農業者として、母として、年々充実した日々を送っていった岩永さん。「今年だめだったらあきらめようというところまで、追い詰められたこともあった。そしたら、その年、にんじんが偶然高値になって、それで生き延びれた。その時思ったの、神様はいるって。神様が、『このへんで少しごほうびをやるか』と思ったんじゃない? そういう経験が一度あると、一生懸命やればなんとかなる、ここで幕引きはできないと頑張れるのよ」。
 
忘れられないことといえば、2016年の台風の大雨による水害だという。「うちは高台だから河川の氾濫こそなかったけれど、大量の雨水で畑の一部が大きく陥没したり、土や作物が流されたり。町の別の地区は被害が大きくて、何もなくなっていた。ただ幸いにも一人も亡くならなかったし、離農者も出なかった。農家の人ってすごいの」。

反対、反発があっても、
夫は頑張れと励ましてくれた 

岩永さんには女性農業者だけでなく、北海道農業分野で「男女共同参画」を熱心に推進したリーダーという顔もある。
 
「本州では男性が外に働きに行き、女性が農業に携わる兼業が多いけれど、北海道は専業が主流でしょう? そうした土地柄も影響しているのか、『お父さんについていけばいい』という考えが北海道は根強い気がする。でも、現状を知らないでお父さんの言う通りについていけばいい、というのは無責任。女性農業者も経営者の意識を持って、男性と支え合い、補い合うことが特に農業には大事よ」。岩永さん夫妻が負債で苦しんでいたとき、岩永さんは家計を切り詰め、JAへ何度も相談に行った。「農業には、奥さんの助けも必要なの」という言葉に実感がこもる。
 
岩永さんがこうした考えを折々の機会に発言すると、女性からのバッシングも強かったそうだ。「こんなふうに反対された、反発されたとこぼすと、夫は『母さんが自分で信じて取り組むなら、頑張ってやれ』と励ましてくれた。私は夫を理解しているつもりだけど、夫もまた私を深く理解してくれている」。
 
2001年、岩永さんは52歳でJAふらの総代に就任した。「個々の農家は男女共同で経営しているのだから、組織の中にも女性がいて当たり前、女性のリーダーが出てくるのも当然。そうした世の中にしていくためには、経験者を増やさなくちゃ」。岩永さんはそうした信念をもって先頭に立った。その後、同JA女性部長、JA上川女性連絡協議会会長、JA道女性協副会長を歴任。11年にJA道女性協会長に就任すると、岩永さんは男女共同参画をより前に進めようと、外部への働きかけを強めていった。

JA道女性協会長時代の家族のスナップ写真

女性では第一号の
JAふらの理事に就任

岩永さんが会長となった初年度の基本方針には「女性の声をJAに反映していくために男女共同参画を重点に実践していく」という文言を入れ、運動の具体的な目標として①JA女性正組合員比率25%、②JA総代比率10%以上、③理事などは各JAで2名以上を掲げた。当時、道内JAの女性正組合員は2割に及ばず、女性役員に至っては1%未満。岩永さんは、「男性農業者にも、女性農業者のJA経営参画を応援しようという意識を持ってほしい、同じ土俵で学ばせてほしいと強く要望しました」。
 
会長時代、JAふらのの総代でもあった岩永さんは、同JA総代会でも、男女共同参画について意見を発言する機会があった。それに際して岩永さんは、参加している女性部の皆さんに「私の発言が終わったら拍手してね」と頼んだそうだ。その演出は、女性が組織の代表でもちゃんと支持されるということを表し、伝えたかったからだろう。
 
2012年、JA北海道大会では、女性農業者のJA経営参画の推進方針が示された。また、13年のJA道女性協の通常総会では、JA北海道中央会の飛田稔章会長(当時)が来賓挨拶の中で「女性農業者の皆さんの力があってこそ、北海道農業がある」と強調。「いまのままでいい」、「無理だ、できっこない」と冷めた目で見る人がいる一方で、頼りになる理解者の輪が広がっていった。
 
JA道女性協の会長を2期務めた岩永さんは、JAふらの参与をへて、17年には女性では第一号のJAふらの理事となった。「飛田会長から、富良野地区での取り組みを発端に、北海道の男女共同参画率が上がったという言葉をもらったときはうれしかった。共同参画の運動は、我ながら本当に頑張った。ずいぶん叩かれもしたけれど、心底やりたいと思っていたから、周囲の人の応援がとても力になりました」。

JA道女性協通常総会で挨拶する会長の岩永さん

辛抱の後には、必ず喜びがある。
思いがつまった農業を

大地を耕し、女性農業者の扉を開いてきた岩永さん。お母さんとしては、一人息子の岳人さんを育て上げた。岳人さんは音楽大学を卒業後トランペット奏者として活動していたが、大学時代に岩永さんが農業機械に巻き込まれる事故にあったことが頭から離れず、帰郷して就農した。2011年には、看護師だった静香さんと結婚した。それを機に、広一郎さんは岳人さんに経営を移譲。「静香さんは、岳人が親に使われているところを見たくないだろうって、夫が言ったの」。経営移譲に際しては、何も注文は出さなかったという。「私たちは新規就農でお金にも苦労して、基盤を作るのに辛抱した。子ども世代は、効率よく、いかにいいものを作るかだけを考えればいい」。
 
岩永さんは、お嫁さんの静香さんを「100点満点。聡明で頼もしい」と手放しでほめる。「息子たちは、じゃがいも、にんじん、麦、大豆、ブロッコリー、ミニトマト、アスパラガスを作っていてね。仕事が大変だろうからと、静香ちゃんに『ミニトマトやめたら?』と言うと、『お母さん、毎日ちょこちょこやるだけで、これだけの収入になるんですよ』って指導されちゃった」。取材に訪れた9月下旬は、じゃがいも収穫の真っ最中。昨年、岩永家が作った加工用じゃがいもは、収穫量、品質ともに道内トップとの評価を受けた。「今日はみんな出払っているから、私は孫のお世話」と笑う岩永さん。二人のお孫さんは岩永さんにくっついて離れようとしないでいた。
 
最初に南富良野町に来たとき、話が違うと思ったものの、帰るに帰れなかった岩永さん。「いまとなれば、こんな山の中に連れてきてありがとうと思う。つらいこともあったけど、農業者になっていろいろなことを知り、得ることができた素晴らしい人生だった」と振り返る。そして、新規就農の後輩たちには、こんなメッセージを寄せてくれた。「自分からやらなければ、誰も応援してくれない。人に後ろ指さされるのが当たり前というくらいの気概がないと、踏ん張りは効きません。途中でリタイヤしないで、自分の思いが詰まった自分の農業にチャレンジし続けてほしい。辛抱の後には、必ず喜びがあるから」。大きな空の下で、岩永さんは収穫作業中の家族の様子を見ながら、微笑んだ。
 
 
「何も知らない私たちを助け、励ましてくれた方々、育ててくれた地域へ、恩返ししなくちゃ」。
そんな思いから、岩永さんは、現在も研修生を積極的に受け入れ、地域の公職を続けています。
夢しかなかった若い二人は、たくさんの人に支えられながら挑戦を続けました。
そして、50年が過ぎたいま、そのバトンは次の世代に渡っています。