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〜1974年から、北海道農業の挑戦とともに〜 GREEN 1974→

乗り越え続ける、米づくり吉田優さん、和矢さん親子(せたな町)を訪ねて

挑戦のバトン

北海道農業の歴史は、挑戦の歴史です。GREEN編集室では、この50年間、農業を前へ前へと進めてきた人々の気概をお伝えしようと、過去にGREENに登場された生産者と後継者、長年農業に携わってきた女性を訪ねることにしました。一人ひとりが農業にかけてきた思い、受け継ぐ世代が切り拓いていこうとする未来にふれてください。

Vol.04乗り越え続ける、米づくり
吉田優さん、和矢さん親子(せたな町)を訪ねて

GREEN No.303に登場された
吉田優さん、和矢さん親子

吉田優さん
1958年、せたな町生まれ。北海道檜山(ひやま)北高校を卒業後、家業の農業以外の仕事をしてみたいと、町外の水産会社に勤務。30歳のとき、母が病に伏したことから、妻と二人の子どもを連れて町へ戻り、三代目として就農。父の代からの稲作に励み、北海道米の代表品種を栽培し続けている。これまで、せたな地区水稲部会の部会長、「函館育ちふっくりんこ蔵部(くらぶ)」の部会長を歴任。
 
吉田和矢さん
1989年、兄、姉をもつ末っ子としてせたな町に生まれる。北海道檜山北高校から専修大学北海道短期大学へ進学し、卒業後にUターンして就農。この夏、優さんから経営を移譲された。看護師の妻と三人の子どもがいる。
 
現在、吉田さん親子は、水田だけではなく畑も合わせて計52haを管理し、北海道米の「ふっくりんこ」や大豆、小豆、そば、ブロッコリーを生産している。

北海道南西沖地震の年、
収穫はほぼゼロ

北海道南部、日本海に面して広がる、せたな町。北海道で初めて米が作られた記録が残る渡島(おしま)地方とは、背中合わせの位置にある。優さんが幼かった頃、せたな町の農業は酪農と畑作がメインだった。吉田家で米を作るようになったのは、父の代から。「私が中学生だったから、1970年代以降のことだね。当時の田植えは手作業で、私は畦から田んぼのおばさんがたに苗を投げて渡してた(笑)。農業の手伝いは、結構したほうだと思うよ。楽しかったからね」。
 
長男に生まれ、将来は農業を継ぐと考えていたものの、優さんが就農したのは30歳のとき。一度は外の空気も吸ってみようと、会社勤めを経験してから戻ってきた。「奥さんと二人で5haの水田から始めた。あの頃は手植えではなく、田植え機があった。手で押すタイプだけどね。初めて作った米は『きらら397』で、食味は良いし、量もとれる良い品種だった」。「きらら397」は、優さんが就農した1988年にデビューした北海道米。粒感があり、かむほどに甘みが広がるのが特徴で、それまで「やっかいどうまい」と揶揄された北海道米のイメージを一新させたスター品種だ。「普及所やJAに教わりながら作った。まずまず順調だった」。
 
就農から5年後の1993年7月12日、北海道南西沖地震が発生した。せたな町は、震源に近い奥尻島とは海をはさんで目と鼻の先にある。「地震が起きた午後10時過ぎは家の中にいた。横揺れ、縦揺れがそれはひどかった。揺れがおさまったところで、車で近くの川を見に行ったら海水が川に逆流していて、そのうち津波が来たからあわてて戻ったさ。一夜明けて田んぼに行ったら、深水管理(※)の時期だったから水は入っていたけど、地面がひび割れててね。そのうえ水路も断たれ、水が来なくなったからこの年の収穫はほぼゼロだった」。当時、優さんは稲作が100%。「どうしようもないね」と、奥さんはつぶやいたという。
 
「それなのに、地震があった翌年には米を作っていたんだよ」と笑う優さん。「どうしようもないね」と、急遽出稼ぎに行った仲間たちもみな、同じように米を作っていたという。「バタバタしながらも、農家はそれぞれに田んぼをちゃんと直していたんだ」。
 
※田植え後、寒さからイネを守るために田んぼに深く水を入れること

生産者自らがルールを作り、
自らに課す

北海道米は、「きらら397」の登場以降、ラインナップを増やしていく。1996年に「ほしのゆめ」、2001年に「ななつぼし」、そして2003年には道南生まれの北海道米「ふっくりんこ」が誕生。「ふっくりんこ」は、道内では気候が温暖で、秋が長い道南に適した品種を作ろうと開発された。収穫時期が遅い、晩生(おくて)の品種だ。
 
2004年、道南(JA新はこだて、JA函館市亀田、JA今金町)のふっくりんこ生産者らによる「函館育ちふっくりんこ蔵部(以下、ふっくりんこ蔵部)」が立ち上がる。ふっくりんこ蔵部は「味や粘りの決め手になるタンパク含有率などの基準を定め、それを満たした米だけを流通させることで、地元に愛されるブランド米を育てる」という目標を掲げ、生産者自らがルールを作り、自らにルールを課す米作りを開始した。北海道米の新たなブランド形成協議会が「ゆめぴりか」の基準を定めていることが知られているが、そうした発想のルーツはこのふっくりんこ蔵部にある。
 
優さんは、どの品種の米でも、苗作りと水の管理は気を抜けないとした上で、ふっくりんこ蔵部が掲げるタンパクの基準値をクリアするには、肥料を適正にまくことが不可欠だと語る。「肥料が多いとタンパクの値が高くなり、少ないと収量が落ちる。肥料の適量は土地によって違うし、土壌診断の結果は参考にはするものの、微妙な加減は作ってみないとわからない。経験も必要なんだ」。たとえマニュアルはあっても、その通り作ればうまくいくわけではない。だからこそ、仲間同士で圃場を見学したり、道外の先進地を視察したり、地区ぐるみで日々研究を重ねることが必要だ。
 
実は、開発された当初は、「ふっくりんこ」は作付が道南に限定されていた。そのため、誰しもが必要とする品種ではないとしてデビューが見送られた経緯がある。それに対して、「ふっくりんこ」を熱望する道南の生産者が関係者に迫った切り札が、基準を明確にした米作りの実践だった。2019年から2年間、ふっくりんこ蔵部の部会長を務めた優さんは、2019年のGREEN No.303でこう語っている。「『ふっくりんこ』は、空知(そらち)地区など産地が拡大したが、ふっくりんこ蔵部発足当時から基準はずっと変えていません。ブランドを守ることは、生産者だけではなく消費者の信頼を守ることにもつながっていると感じます」。「ふっくりんこ」は、我々が育ててきた大切な品種だという自負が、いまも道南には綿々と受け継がれている。

読めない天候には、
知恵と工夫、努力で

優さんが就農した翌年、和矢さんは生まれた。和矢さんは小さな頃から農作業をよく手伝っていた。「田植えから稲刈りまで、いろいろやりました。両親が働いているのを近くで見ながら、家族でひとつの作業をやるのは楽しかったです」。誰から言われたわけでもなく、将来は農業をやるんだろうなと思っていたそうだ。
 
和矢さんが就農したのは2010年。吉田家の水田は13haほどで、その半分程度で「ふっくりんこ」を作っていた。「自分の家で作った米はどの品種もおいしいですが、『ふっくりんこ』は冷めても食味が落ちず、おいしいなといつも思います」。
 
13年の間、和矢さんは「ふっくりんこ」、「ゆめぴりか」、「きたくりん」などを作ってきた。「ふっくりんこ」は発芽率が高く、育ちは遅いがタンパクの値が低いので安定性がある。「ゆめぴりか」は芽を出すのが難しく、田植えの際にうまく植わらないこともある。「きたくりん」はこれらに比べてつくりやすい。品種の特性を踏まえ、そう説明する和矢さんの口調からは自信が伝わってきた。
 
「ふっくりんこ」も「ゆめぴりか」も、タンパクの値を栽培基準に定めている。こうした品種を作る秘訣を聞くと、「6月下旬頃、水田から水を抜きます。この時に水を抜き切ることです」と和矢さん。そうすることによって、タンパクの値に影響を与える窒素分もしっかり抜くことができるのだそうだ。「米作りで一番気になるのは、やっぱり天候です。常に2週間先までは調べていますが、最近は本当に読めません。とはいえ、昔もそうだったはずなんです。知恵と工夫、努力で向き合うことですよね」。
 
自身の米作りは100点満点中何点かと聞いてみた。「70点くらいでしょうか。自分は直播もやっていて、そこでマイナスが出ちゃうんです。草が多かったり、発芽が悪かったり。それで70点。直播を除けば100点?そうですね、100点です(笑)」。

将来を見据えて、直播栽培に挑む

和矢さんは、8年前から田んぼに直接種をまく直播栽培にも挑戦している。直播栽培は、従来型の移植栽培で労働時間の多くを占める苗づくりと田植え作業を省くことができ、担い手不足や高齢化に対応できる方式として有望視されている。
 
「水田が18haになったとき、直播栽培をやろうと決めました。今後も水田が増えていく見通しがあり、そうなると苗を育てるハウスが足りなくなります。将来を見越して、先手を打とうと考えました」。始めるにあたっては、直播栽培の先輩に相談し、栽培のコツも教わった。「直播は、芽が出てからは雑草との執拗な戦いに追われます。薬をたくさんまけば収量はとれるでしょうけど、経費はかさみます。直播は移植より収量がどうしても下がりますから、コストとの見合いを緻密に計算しなければ」。
 
直播で最初に栽培したのは「ななつぼし」で、予想以上の出来だったそうだ。その後、直播栽培の田んぼを増やし、5年前からは乾田直播も行っている。直播栽培には、種をまく前に田んぼに水を入れる湛水直播と、水を入れない乾田直播がある。移植栽培、湛水直播、乾田直播の3つの方式で米づくりを行うメリットはどこにあるのだろうか。「ハウスで苗を育てながら、直播栽培の種をまき、それが終わったら移植栽培の田植え作業に入るというように、時間をムリ、ムダなく使えます。しかもその間に畑作業もはさむことができます。農家の仕事は、忙しい時とそうでもない時の差が激しいものですが、私はそこをうまくコントロールして、土日は休んで家族とゆっくりできるような生活をしたい。そうできたら最高だなと思っているので、このやり方を進めています」。
 
今後の目標は、米を軸に大豆、そば、ブロッコリー、小豆の輪作体系を確立することと語る和矢さん。「田んぼはもちろん、いまある米の施設や機械を有効に活用したいですし、輪作をすることで肥料を減らすことができれば、経営的にも少しは有効だろうと考えています」。今年、優さんは刈取数量を自動計算できるロボットコンバインを購入した。和矢さんは「稲刈作業が楽になると期待しています。ただ、二人の息子たちが乗せてくれとせがんできて、それが大変なんですよ」と、うれしそうに笑った。
 
米という字が「八十八」という文字から作られているのは、米づくりには88の手間がかかるからといわれています。北海道の生産者は、その一つひとつに技術や知恵を注ぎ、もっとおいしくなるようにと、さらにひと手間ふた手間を加えています。今年も新米の季節です。北海道米をぜひ味わってみてください。