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農業は「母性」大原ノリ子さん(せたな町)を訪ねて

挑戦のバトン

北海道農業の歴史は、挑戦の歴史です。GREEN編集室では、この50年間、農業を前へ前へと進めてきた人々の気概をお伝えしようと、過去にGREENに登場された生産者と後継者、長年農業に携わってきた女性を訪ねることにしました。一人ひとりが農業にかけてきた思い、受け継ぐ世代が切り拓いていこうとする未来にふれてください。

Vol.02農業は「母性」
大原ノリ子さん(せたな町)を訪ねて

50年にわたり、農業とともに
生きてきた大原ノリ子さん

1951年、5人兄妹の次女としてむかわ町に生まれる。75年、せたな町北檜山(きたひやま)地区で二代目として農業を営む大原正照さんと結婚。兼業農家の大原家で、田畑の管理から農作物の生産、出荷までを担い続ける。その間3女1男をもうけ、子育てがひと段落ついた40代後半でJA女性部の活動に参加。旧JAきたひやま女性部長を経て、2013年にJA北海道女性協議会(以下、JA道女性協)副会長、15年にJA道女性協会長に選任される。退任後、旧JAきたひやま理事。長男の正臣さん・亜由さん夫婦に経営移譲した現在は、野菜やメロンなどの栽培、地域の仲間とのみそ造り、旅行などを楽しんでいる。せたな町北檜山在住。

大原正照さん・ノリ子さんご夫妻と、長男の大原正臣さん・亜由さんご夫妻

母親が子どもの顔色の
違いがわかるのと同じ

むかわ町の兼業農家に生まれ育った大原さんは、幼い頃から家の手伝いをしていた。働き者の兄の仕事ぶりは、妹から見ても、それは見事だったという。
 
50年前、大原さんが嫁いだ先も兼業農家だった。しかし、仕事の仕方はまったく違った。夫は、結婚2年目から田植えと稲刈りの時期以外は外に働きに行った。義父は病に倒れ、義母は農業をしたことはない。目の前に広がる4haの水田は、大原さんに任された。「一人農業みたいなもんよ」と、大原さんは笑いながら振り返る。
 
やがて水田面積が増えてゆき、畑でじゃがいもや豆を作るようになった。トラクターの運転も、農作業スタッフのとりまとめもすべてやった。孤軍奮闘の母のそばには、見よう見まねで作業を手伝う幼い子どもたちがいた。農業はどのようにして覚えたのかを聞くと、「暇があると、作物を見比べていた。周りの人から笑われるくらい(笑)。奇人変人の世界で、普通じゃないと思われてたと思う(笑)」。1本1本のつるになるサヤの付き具合、豆の粒の大きさなどを観察する。気になることがあると、農協に飛んで行き、質問攻め。その熱心さに打たれた担当者が畑を見に来てくれ、原因を教えてくれた。「私には農協だけが頼りだった」。
 
「ふだんから作物をちゃんと見ていると、微妙な違いに気づく。母親が子どもの顔色の違いがわかるのと同じ。繊細な男性もいるけれど、女性には男性には見えていないものが見えていると思う。だから言うの、農業は感性であり、母性が大事だって」。

培った技術、息子の将来を思うと、
離農は考えられなかった

農作業と4人の子育ての両立に、押しつぶされそうになったこともあったという。「子どもが小さい頃、体調を崩したこともあった。夏場はいいけれど、冬場には呼吸困難になって病院に通ったね。その後も家を出ようと思ったことは何回もあったけど、子どもがいたから置いては出られなかった」。
 
「自分でもよく働いてきたと思うほど働いた。じゃがいもを箱詰めするにしても人手がないから、子どもたちに教えながらやって。なんとかつないできた」。子どもたちもそんな母の姿を記憶している。「この間、娘がこんなこと言ってたの。『自営業の夫の手伝いをするのに、子どもの頃に仕事の段取りを教わったことが役立っている』って。苦労させた娘にそう言われて嬉しかった」。
 
自然災害にも何度も見舞われた。「専門学校に通う娘2人に仕送りしていた頃が一番大変だった。8月の大雨で3haのビートが全滅したの。前年にも7、8トンとれた畑に水がついて。どうにかダンプ1台分くらい選んで出荷したけど、あの時はどん底だった」。
 
この時、夫の正照さんは離農を口にした。しかし、大原さんは農業を続けると即答した。「私なりに培った技術があったから、惜しくてやめられなかった。将来、息子が『農家やりたかったのに』と言うかもしれないとも思ったし」。ぎりぎりの状態の大原さんを救ったのは、いつも通っていた農協の担当者だった。「親身になって経営面の相談にのってくれて、本当に助けられた。感謝してもしきれないほど」。

北海道の女性農業者と
農業をつないでいくために

JA女性部の活動を本格的に始めたのは50歳を過ぎてから。「女性部は営農方法から家の問題まで、女性農業者同士でなければわかりあえないことを語り合える貴重な場」と大原さんは語る。
 
JA道女性協の副会長、会長時代は、公的な機関への陳情も行った。北海道米の全道会議などでは、新規就農者だけでなく、後継者にも機械導入や規模拡大を図れるように指導してほしいと、農業をつないでいくための提案を積極的に行った。
 
会長時代は初の試みとして、全道各地の女性部が作っている加工品をセットにして販売。これは、JA道女性協からホクレンに協力を仰ぎ、実施が決まったものだった。「準備段階で反対意見が出たとき、『私たちが提案したことだから、私たちの名誉にかけてやらなければならない。ホクレンが後押ししてくれるのはチャンスだ』と説得したことも忘れられない」と語るなど、会長時代は波乱万丈だったそうだ。「一人では何もできないけれど、みんながすごく協力してくれた。JA道女性協は、全道の会長と12地区の会長からなる13本の矢だと、みんなでよく言ってた(笑)」。
 
JA道女性協で知り合い、交流が続いているメンバーも少なくない。後継問題で割り切れないものを抱える友人には、「自分がつないできたものを次の世代がつないでくれるってことは、すごく幸せなこと」と諭していると言う。また、理事を務めていた旧JAきたひやまが2023年2月にJA新はこだてと合併するにあたっては、後継者も少なくなっているこの地域を維持するには、痛みを伴うこともあるかもしれないけれど、お話があったときに決断しないといけないと理解を求めた。「つなげる、つながるのが大事。私はそう思うから」。

息子に任せたなら任せる。
嫁には苦労はさせない

嫁いだ時から農地を10倍以上にし、2008年、長男の正臣さんに経営を移譲した。その時、大原さんが正臣さんに言ったのは「頑張ってやってね」だけだった。「任せたなら任せる。息子は息子なりに考えてやっていくのだから、老いては子に従えで(笑)」。将来を心配した時期もあった末っ子の一人息子が独り立ちして、自分の力で生きて行こうとしていることへの、大原さん流のエールなのだろう。
 
大原さんは新規作物を手掛けることにも反対するつもりはなく、正臣さんが「今年はさつまいもやブロッコリーも作る」と言うと、「うん」とだけ答えたそうだ。「息子は農家のたくさんの友達と情報交換したり、農協から情報収集したりして頑張ってやっている。いくら息子とはいえ、私の昔の知識でいろいろ言うのは失礼になる。やってみて良かったら面積を増やせばいいし、無理だと思ったらやめればいい。嫁の亜由ちゃんと相談しながらやっていけばいいと思う」。
 
札幌の自営業の家庭で育ち、大原家に嫁いだ亜由さん。「最初にお母さんは私にこう言ってくれました。『私は家のことで大変な思いをしてきたけれど、亜由ちゃんには苦労させない』って」。結婚してまもなく子どもができ、いま二人目を授かっている亜由さん。「結婚して7年たちますが、子育てがあって農業の仕事は全然できていなくて。言われたことを自分ができる範囲でやっているくらいなんです」と言うと、大原さんは「亜由ちゃんは、息子をよく支えてくれている」といたわるように言葉を添えた。

農業があったおかげで私がある。
農業は天職

大原さんは、自身のことを農家ではなく、農業者と語る。「業」とは技を指し、その技は自分自身との長い闘いを通して獲得したものだ。「農業は、手をかけようと思えば、いくらでもやることがある。逆に、そこまでやらなくていいと思えば、いくらでも手を抜ける。私はあとで、『あの時やっておけばよかった』となるのがイヤで、いまできることなら少しでも手をかけて自分が納得したいの。ただそれだけ。もう、自分の世界(笑)。農業は自営だから、そんなこともできるの」。
 
第一線を退いたものの、大原さんは今も5棟のハウスで20種類以上の野菜を育てる現役の農業者。その中には、孫が好きだと知って、作るのをやめられないメロンもあるそうだ。また、遠くで暮らす義姉たちには、嫁いだ当時にお世話になったお礼にと、大原家の畑でとれたものを毎年送っているそうだ。
 
一人農業から始まり、自然災害に見舞われ、子どもを育てあげ、農業に携わる女性たちと活動し、さまざまな出会いに彩られた50年。「農業があったおかげで私がある。ほんとうに大変だったけど、すごく楽しませてもらった」と大原さん。最後に「生まれ変わっても農業をやりたいですか?」と聞くと、「農業をやりたいね。農業は私の天職だから」と弾んだ声が返ってきた。
 
 
大原さんは、お嬢さんから「大変だったけど、お母さん、幸せだね」と言われたそうです。母として、生産者として、経営者として農業にしっかり携わってきた大原さんをはじめ、豊かな母性や独自の視点、強い精神力を持った女性たちが北海道農業を支えています。